例えば、入植初年度は、不作により伐木の
稼ぎで米麦を購入した他、フキ、ワラビ、ゼンマイなどの山菜、川魚のヤマベ、イワナを食べていた、と苦労の一面を垣間見ることができます。しかも、3年連続で不作が続いたそうです。合気道の根底には、開祖盛平翁が経験した開拓当時の苦労と自然リスクからの学び等が多分に含まれているのではないか、と解釈することができるのです。
開祖盛平翁が白滝に在住していた期間は、わずか8年程度です。短い期間ではありましたが、開祖盛平翁は「白滝王」と尊称されるほど村づくり・町づくりに貢献したことが資料に残されております。例えば、1913年(大正2年)6月、開祖盛平翁所有の小屋を補修して白滝二股に白滝特別教授所を開所[1] 、同年秋、開祖盛平翁が「上湧別村衛生組合白滝衛生組合」の初代組長に就いております。また、1918年(大正7年)6月2日には、上湧別村の村会議員選に当選し、翌年4月まで上湧別村の発展に向けて貢献しています。
開祖盛平翁が白滝での開拓をはじめ、上湧別村の役人として活躍していたことはわかりましたが、なぜ白滝が「合気道発祥の地」とか「合気道ゆかりの地」と名付けられているのでしょうか。一説には、大東流中興の祖と呼ばれる武田惣角氏との出会いに関係があるとされています。
写真説明:小屋(右側)の前に立つ男性が開祖植芝盛平翁
※写真は『合気道開祖 植芝盛平伝』より転写
1915年(大正4年)2月、吉田幸太郎氏の紹介により開祖盛平翁が大東流に入門したとされます。稽古は、北海道遠軽の久田旅館で1カ月、その後、武田惣角氏を白滝の自宅に迎えて15人程で行われたそうです。また、白滝に招いた間は、開祖盛平翁自身が師である武田惣角氏の身のまわりの世話をしています。
1919年(大正8年)の年末、「チチキトク」の電報が入り、開祖盛平翁が白滝を去るきっかけとなりました。白滝から去る際には、師である武田惣角氏に家などの私財を差し上げており、開祖盛平翁の義理人情に厚い一面を窺い知る事ができます。
北海道遠軽町・白滝には、合気道にゆかりの深い資料が多々あります。開祖盛平翁の歴史を知る合気道家にとって、白滝・遠軽という場所は魅力的な土地と言えるのではないでしょうか。
最後になりますが、多田道場長が旭川大学地域研究所特別研究員だった頃から開始している「遠軽町白滝時期の開祖盛平翁」に関する調査研究によれば、史実に誤認があることや、これまでに明らかになっていない事実を発見しているそうです。
なお、現時点においては、前記の情報を公表する予定はないそうですが、合気道と地域の発展という価値を踏まえて、情報の活用方法については十分に検討を加えて行くとのことです。
【脚注】
[1] 資料には「『われわれ団体員の中には子供連れもいたし、団体員以外の開拓者の中にも子供がいた。こうしたかわいい子供の教育を放っておくわけにはゆかず学校の設置を願って運動を続けた。そのころ役場は上湧別であったので上湧別まで何回となく通い、兼重村長に陳情した。汽車も車もなく歩いて行ったが、そのうち話がまとまりそうになったので急いで土地を選び堀立小屋のような仮校舎を建てたのである』」という開祖盛平翁の言葉が示されている。また、白滝小学校の前身でもある。
【参考文献】
植芝吉祥丸編著、植芝守央改訂版監修『合気道開祖植芝盛平伝』出版芸術社、白滝村史編さん委員会『白滝村史』白滝村、1971年。